私のブログの代表エントリの一つに「私が自分のサイトを持つ理由」というエントリがある。
私を見てください。 自分のサイトを何のために更新しているかと問われたら、何をどう答えようとこの一言に帰結するだろう。 以上が、今回のお題「何のために、誰のために更新していますか?」への私のすべての回答だが、ここで終わりにしてしまうのも申し訳ないのでもう少々続けてみようと思う。 「私を見てください」というのは、私のサイト全体を通してその向こう側に存在する私自身を見てくださいという意味です。そんな私のサイトの中で、今やメインとなっている「個人ニュースサイト」の部分。これについて一つ思っていることを述べてみる。 どのように書いたらよいだろうかという思考は、ブログは3人に向かって書けにて、自分・対象者・その他大勢すべての目を意識する必要があると書きました。今回はその対象者である二人称をどこにおいているかというお話。 私は、私のサイトを見てくれている人のために更新しています。 私のサイトは今はサイト論の紹介が多いですが、決して「サイト論ニュースいっぱいあるから、サイト論好きな人集まれ~」とは思ってません。私のサイトを毎日見てくださる方の中にサイト論を期待している人がいるので、その期待に答えているという気持ちの方が大きいです。 自分のサイトを毎日見てくれている方の判別方法は、やはりアクセス解析です。 例えば、ニュースサイトの場合は情報元として自分のサイトを良く表記してくれる方のサイトはチェックします。そして、そのニュースサイト管理人の好きなニュースの傾向を把握し、そのサイトでまだ紹介されていない、そしてその管理人が好みそうなニュースを見つけたら掲載します。 例えば、ブログの場合は「いつも拝見しています」と直接書いてくれる方がいます。そういう方のブログも欠かさずチェックし、その人の好きなジャンルを把握できたら、その人に合ったニュースを配信してあげたいなって思います。 おかげで、多くの読者を把握できるようになった今、ちょっと雑多なニュースサイトになってしまった感がありますが、きっとこれも私らしさなんだと思います。 まぁ、一番の読者は自分自身なんですけどね。 #
by text_project
| 2006-05-10 02:16
| まなめ
0. はじめに
今回のテーマは「誰のために、何のために更新していますか?」ということで「小生にうず」の香陸です。ここのところサイトを更新していないため、いまや過去形で書かなければならないのではないかと思いつつ、端的に書きます。 1. 誰のために 僕は楽観的な人間なので「誰かのために」と解答します。サイトの更新は仕事でやっていることではないので「こうしたい、ああしたい」という気持ちはありますが、目的を持ってこなしているものではありません。つまり、遊びでやっていることなので本質的に目的を欠いています。しかし、ウェブという媒体上(幸か不幸か)僕は単独で遊んでいるわけではないので、誰かが僕を役立てることもありうるだろうとは思うわけです。だから、鳩がオリーブの枝葉とともに戻ってくるのを待ち望んでいるわけではないにせよ、誰にも拾われない紙飛行機を暗闇に向かって投げているわけでもないと感じています。 2. 何のために こちらも同様に「何かのために」というしかありません。手広い情報の収集とささやかな刺激、それと僅かばかりの金銭のためにやっているという解答もありだと思うのですが、しかし本当にそうであるとするならば、僕はサイトの更新ではなくもっと別のより効率の良いことに手を付けているでしょう。結局のところ、長いこと続けていたら「なにか良いことがあるかもしれない」あるいは「少なくとも悪いことはないだろう」といった希望的あるいは消極的な予測に基づいた暇潰しの継続だったりします。しかしまた、そうやって暇を潰して作ったサイトに思いのほか愛着を抱いたりもするのです。 3. おわりに 実のところ、こうした無動機でサイトを更新している人間は珍しいのではないかと思います。目的のための手段となっているわけでもなく、それ自体が目的となっているわけでもなく、わかりやすい楽しみを享受しているわけでも、なにもないところになにかがあるように思わせる努力をしているわけでもない。それでも僕はサイトを存続させ、人目に留まるところに置いています。図々しいでしょうけれど、もう少し、内側にいると実感できる場所で続きを見ていたいのです。 本質的に目的がないにしても、あるときどこかで目的は必要になってきます。その必要とされる目的を捏造することを放棄しても、前向きに行動するということに関しては迷わない。僕が「楽観的」という語で示唆しているのはそういうことです。 #
by text_project
| 2006-05-08 13:31
| 香陸
自分のためです。サイトは自己顕示欲と情報収集欲の結晶といってさしつかえないと思います。
そもそもは自分のネタを書き留めるために始めたサイトであり、自分の持っている情報を共有することで都合のいい環境を作ろうとしている試みでもありました。 他人の喜ぶ顔を見るのが嬉しいということも一種の欲望だと考えれば、僕のすべての行動は自分のための行動だといえるでしょう。 欲望を離れること、滅私すること、完全に他人のために行動するってできるのでしょうか。 小説『フラニーとゾーイー』でゾーイーは妹のフラニーに太っちょのオバサマのために演技しろと諭します。 自分からは切り離されていて、それでいて身近に感じる他者のために、演じろと、太っちょのおばさまは誰でもあり、そしてキリストであるとゾーイーは言います。 我から離れるためには自分から切り離された一神教型の神が必要なのかもしれません。そこでは人はみな等しく神の子であり、神を通して滅私奉公できます。 あるいは、仏教のように、法を極めることで欲望から解脱し、自然と一体になることもできるかもしれません。 僕は特定の宗教に属していないので、神秘的な体験をしたこともなければ悟りを感じたこともないのですが、何かの役職として振舞うとき、自我の鎖から外れ、滅私できるような気がするときがあります。 ただ、僕は欲が深いのか、なかなかそれになじめませんが。また欲望から離れることが人間にとって幸せであるかはわかりませんが、時には自分をなくしてみる体験をしたいなと思います。 なんか全然違う話になってすみませんでした。 #
by text_project
| 2006-05-05 00:02
| 鴎
|
検索
カテゴリ
Authers
以前の記事
最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||